郷土料理が立ち上がる態度について ──『郷土と人の混ざりあい』続── はじめに 本稿は、郷土の食材となるモノと、人の手仕事の関係を記した 『郷土と人の混ざりあい』の続きです。今回は、郷土に対する人 のどんな態度から「郷土料理」なるものができていくのか。その 過程を、私自身の経験を通して記録しました。 飲食店で料理人をしていた頃、食材は基本的に「集める」もので した。必要な料理があり、そのために必要な材料を揃えます。 ところが、郷土で暮らす母の食卓を見ていると、料理のために走 り回っているようには見えないのに、なぜかモノが「集まって」 くる。私はその不思議に何度も出会いました。 本稿では、この差を「郷土=集まるモノの範疇」という見方か ら、追い直していきます。
郷土とは「土地」ではなく「範疇」である
郷土とは土地そのものではなく、「そこに集まってくるモノの範 疇」だと思う。そして、その範疇の輪郭が定まったとき、料理は 郷土料理として立ち上がります。 ここで言う「安全」とは、制度や証明書が与える保証でありませ ん。それは、その範疇に混ざって良いかどうかが、関係の中で試 されている状態です。関係が何度も結ばれ、ほどけ、また結ばれ ます。その反復の積み重ねが、範疇を内側から支えていきます。 そして重要なのは、反復のあいだに「合間」があることです。料 理は、その合間に立ち上がります。
郷土料理には、大きく二つの体系があります。
・手仕事の合間にできる料理
農作業や家事、小屋仕事の合間に生まれます。保存や加工の技
術が、身体の感覚として伝わっていきます。
・慣習で必要な料理
葬式などの慣習の場で要請される。作法そのものが、場を通し
て伝承されます。 私自身の郷土料理は、農作業で関わった人々、畑や山の食材、そ して飲食店で培った料理技術が混ざり合ったものになっています。 ただ、その混ざり合いを深めるための「合間=余暇」が、現代で は失われやすい。そこは課題でもあります。 現代社会では、範疇に混ざる手前で試される場が、市場や制度へ 外部化されやすい。けれど、関係を範疇で積み重ねていくと、親 戚・近所・農協など特定のかたまりが交差し、結果として「モノ が集まる」状態が生まれます。郷土とは、その状態を支える範疇 の運用そのものです。
1. 「集める」料理人の担保
自身の体験を思い返してみます。 飲食店で料理人をしていた頃、食材は「集める」ものでした。料 理人という立場を全うするために、レシピ本を見たり、他の料理 人のやり方を真似たりして、足りない技術を埋める。忙しさの中 で、私はほとんど厨房だけで時間を過ごしていました。 その結果、仕入れ先の暮らしも、ホールのお客さんの暮らしも、 私にとっては「外部」になっていました。不特定多数を相手にす る以上、「安全性」と「再現性」をどう担保するかが、料理人の 技術の中心になります。 料理には必要な食材があり、分量通りに作れば再現性が出る。食 材や調味料は市場を通るために規格品化されます。もちろん同じ 形の大根は一つもありませんが、「規格に収まる大根」として、 市場が暗黙に許しているという保証があります。 そして、その保証の上で出てくる微妙な差異は、料理人が味付け や切り方を調整して引き受けます。食材の特性を見極めて対応する 点では郷土も飲食店も同じですが、「安全性」が支えられている 範疇が違う、と私は感じていました。
飲食店の保証は、規格や再現性として外部に用意されています。 一方、郷土の保証は、範疇に混ざってよいかどうかを試す関係の 反復として、内側から立ち上がります。 この差が、「集める」と「集まる」の違いとして現れています。
2. 母の食卓と「集まる」という不思議
飲食店をたたんで農家を始めてから、私は農作業の合間にオンラ インで音読会をしています。 いつもオンラインで会っている多田さんと稲垣さんが、遠くの大 阪から、飛行機で遊びに来てくれた日があります。せっかくだか ら、気持ちが良い場所でご飯が食べられるように、作業台をテー ブルに農作業用の収穫カゴを反対にして座れるように用意しまし た。山菜が一通り出終わり、山に夏の湿気が混ざり始める頃、畑 の食卓には母の料理が並びました。 田んぼに囲まれ、奥に集落が点在する場所。町の境を越えるには 峠かトンネルを抜けなければなりません。山の移ろいが四方から 迫ってくるような地形です。 アスパラガス畑の隣には、ナスやトマトの苗が植えられています。 畑の食卓には、この時期に山で採れる赤ミズの汁物があります。 赤ミズは表皮が繊維質なので、茎を折って表皮だけを丁寧に剥い ていきます。 玉コンはイカを加えて煮付け、辛子を添えます。ニシンの昆布巻 きは爪楊枝で留めますが、祖母の頃は干瓢を使っていました。わ らびの一本漬けは、ちょうど合う蓋付きの小皿に収まっていま す。おこわには、近所の方がたまたま持ってきてくれた頂き物の 生野菜が添えられています。 紫蘇巻きは、母が作ったものではなく、農作物の納品先(道の駅) で知り合った方の手作りです。甘さがちょうどいい。笹巻きも同 じ方のものです。皿の一つは、畑でアスパラガスの天ぷらを盛り 付けるために空けています。おこわの椎茸は冬に頂いたものを干 して保存していました。筍は春に水煮で頂いたものを、そのまま
残しておいたものです。 母の料理は、どうやら郷土の関係から「集まってくる」ものらし い。料理のために動き回っているように見えなくても、ある範疇 で暮らしていると、人やモノや環境との関係が結ばれ続け、その なかで「混ざってよいかどうか」が小さく試され続けます。 その試され方が日常の作法として運用されるから、モノが「集ま る」と錯覚できる態度が保たれます。 季節ごとに集まるモノの偏りは、保存の技術で時間を引き延ばし ます。分け合いや贈り物のやり取りによって、モノが行き交う瞬 間がいたるところで生まれ、積み重ねに応じて、範疇の輪郭が形 づくられていきます。 私は最上町月楯という行政区分に住んでいますが、ここでいう郷 土は行政名ではなく、「集まるモノの範疇」の内側にあります。 どうやら、混ざってよいかどうかが試され続ける範囲から集まっ てくる料理が、「郷土料理」なのかもしれません。
3. 「郷土料理」という言葉の来歴